2020.12.15

大西亭

大西亭

 

包丁にこだわるお店は美味しい

食材にこだわる飲食店が増えた中、その食材をより活かすために、料理人が行きつくのが包丁へのこだわり。包丁の質や手入れにまでこだわるお店は、例外なく美味しい。

グルメサイトのレーティングでは紹介しきれない本当に美味しいお店を、料理人の魅力を通して紹介する、「味でつなぐ 料理人探訪」

第6回目は、大阪で本格的なフレンチビストロにこだわり続ける「大西亭」大西敏雅氏にお話を伺った。


小さな頃は、両親が帰って来るまで待てずに、自分でご飯を作っていました


 両親とも八百屋で商売をしていたので晩御飯が出て来るのが夜中の8時過ぎだったんです。小学生だった自分は、その時間までご飯を待つことができませんでした。
そこから料理に興味を持ち、自分で作って食べていました。


 例えばカレールーを買ってきてじゃがいもをむき、子供ごころにカレーシチュー用のお肉では満足できず、お肉屋さんに相談して脂が多いバラを頂いたりしていたのを覚えています。


 そんな幼少期の思い出もあり、商業高校に通っていたにも関わらず、進路を改めて考える時にははっきり料理がしたいと思いました。親は辻調理師専門学校など希望の道を叶えるための提案もしてくれましたが、高校の就職課から当時から名門だったリーガロイヤルホテルの調理場を提案され、高校を卒業してそのままリーガロイヤルホテルの門をたたきました。


 高卒という学歴で入れるものかと思いましたが、すんなり入ることができました。後から聞いてみたところ専門学校に行っても、首席クラスの人しか入れないということで、なんで高卒と専門学校の首席が同じように入るのか?と不思議な感じがしましたね。

 今考えると、僕が中高とずっと野球部で、根性があるというふうに思われたのが良かったのかも知れません。実際当時の飲食業界は体育会系色が強い世界でした。高校野球で鍛えられた子のほうが合っていたのでしょうね。

 自分の同期も先輩もみんな野球の名門校出身やレギュラーだった人ばかりで、実際、当時のリーガロイヤルホテルの野球部はとても強かったです。

 厳しかった反面当時はすごく夢のある職場で、総料理長は常務取締役にも就任しており、引退した後も「元ロイヤルホテル」という肩書でゴルフ場や系列ホテル、レストランへの道も開けた。

 入社時の所信表明演説では、同期みんなが「ずっとロイヤルホテルのために働いて、いつかは総料理長を目指す」と言っていた中、私は「早く独立したい」と言って会場がポカンとしてしまいました。当たり前だと思っていましたが、今考えると、両親が商売をやっていた影響もあるかも知れませんね。

1日に30件の結婚式が開かれる最高峰ホテルでの修行

 今は土日で10件の結婚式をさばくそうですが、 当時は1日朝、昼、夜それぞれで10、合計30件結婚式が入ったりしていました。あとは大手百貨店のレセプションパーティの料理、3000人前を出張でコースを出したり。関西でそこまでの規模と求めるクオリティでのパーティを受けられるチームは関西で我々ぐらいだったんでしょうね。

 一日何十件の結婚式、何千人規模のパーティと言っても、一件一件のパーティがその方々にとって一生に一度の舞台です。失敗は絶対に許されません

 勤務時間も朝の7時から夜の11時でしたが、忙しい時期は後片付けなどが終わって帰っても夜中の2時。寝ずに、3-4時には出勤して準備などもしていました。

 先輩が求めるものとか起こりそうなトラブルを予見して準備しておくと、色々任せていただけるようになりました。

 料理の知識や技術は絶対的な場数が必要です。怒られながら経験を積むしかない一方、こういった準備は計算と予見ができれば目にかけて貰えましたから。

 19歳の時には数百人の食材手配やスケジュール管理も任せて貰えるようになっていましたね。

 

日本が一番元気な時に、最高峰の現場で経験できた

 3年間、怒涛のように宴会部で経験を積み、そのあとはシャンボールというリーガロイヤルのメインダイニングに配属されました。

 600名の料理人のうち、25名しか配属がないエリート集団で、大阪に訪れる皇族や国賓の料理を作る部署あったので非常に緊張しました。先輩方もフランスの三ツ星で修行をしてきたような方々ばかりで、使う用語やメモもすべてフランス語だったのでそこについていくのに非常に苦労しました。

 当時(1990年前後)は時代の流れもありお金に糸目をつけず豪華な食材と調理を施せました。戦後すぐのロマネコンティ、当時まだ安かったと言っても百数十万円するようなワインを開けたり、それでソースを作ってくれとオーダーを受けたり

 大変ではありましたが、毎日が勉強で苦にはなりませんでした。当時最高の食材を扱って来たおかげでかなり食材を見る目が養われたと感じます。今は高級ホテルでもどうしてもコストとの兼ね合いを考えないといけませんし、競合も増えてきているので大変だなと思います。

居酒屋としての独立と、阪神淡路大震災

 修行もしっかりできて、そろそろ独立したいと意思を固めました。「94年の秋口に退職したい」と上司と相談はしましたが、最も忙しいのがクリスマスから年末年始。

 人が補充できない懐事情も分かっていたので、「1月25日までは残りますよ」と伝えたところとても喜んでいただけました。

 そこまでは良かったのですが95年の1月17日、阪神淡路大震災に見舞われます。

 送別会なども中止になりました。心細い気持ちはありましたし、嫌でしたが、そもそも経験がないのでどれだけ大変なことだったのかピンと来ていなかったのが正直なところでした。

 95年の2月にオープンしようと思っていましたが、 当時は阪神高速が倒れてしまって、大阪神戸間を結ぶ道が2号線しかありませんでした。その2号線に自衛隊の車ががんがん通るような時期に、ガスや電気、建築資材など手に入るはずがありません。オープンが遅れることがほぼ決まってしまいました。

 そんな折、当時リーガロイヤルの仲の良い先輩がフランスに派遣されるという話を聞いたので、一緒について行かせていただくことにしました。そこで受けた影響は非常に大きかったですね。

 ホテルから正式に派遣された先輩とは違い私は厨房に入れるわけではないのですが、三ツ星のホテルのレストランから不意に入ったビストロまで、出し方や見せ方、美味しいもの、美味しくないもの。


 「フレンチとは」をすごく勉強させてもらいました。刺激を受けては、「自分ならこうするのに」とずっと考えていました。

 ただ、私の中でフレンチは特別な料理という気持ちが非常に強かったですし、当時日本で本格的なフレンチのお店なんて数えるほどしかなく、お客様が来ないと当時は思ったのです。

 お客様の間口を広げようと居酒屋を始めたのですが、なかなかうまくいきませんでした。メニューが思いつかないですし、だし巻き卵を作っても楽しくありません。向いてなかったんでしょうね。

 思い返すと居酒屋がやりたければ居酒屋に修行に行けばよかったんです。何のためにフレンチの修行に行ったり、フランスで勉強をしたのか。心のどこかではずっとフレンチへの思いがあったように思います。


 

フランスで受けた影響と、ビストロとしての再起

 ある日ふと材料があったので、ドフィノワーズ(じゃがいものグラタン)を作ったんです。それを出すとお客さんにすごく喜ばれた

 こちらからすると当たり前のように作っていた料理でも、本格的なフレンチを口にする機会はなかなかないわけです。

 居酒屋としてのスタートを切ってまだ半年も経っていませんでしたが、ビストロとして「自分ならこうするのに」というアイデアはフランスでたくさん芽生えていた

 これをやってしまおうと。例えば関西人は「いらち(せっかち)」なのに関わらず、フレンチと言えば一皿一皿に時間をかけ、大きなお皿にちょこんとした料理が乗っていますよね。

 見た目は美しくても、出た時には冷めてしまっていたり、足りないことも多い。メインで出されるのはビーフステーキなど、実は本場ではほとんど出ない料理。

 フレンチでは同じ牛肉を使ったとしても子牛です。日本でメインにジビエや鳩などを出す本格フレンチなんてほとんどありません。

 「本格的なフレンチを、できたてで、リーズナブルに、お腹いっぱい」食べられるようなお店。それをコンセプトにやろうと思ったんです。

 当時から肉でも野菜でもフレンチの本格的な食材にこだわっていたので、最初は知名度がなく厳しかったのですが、徐々にお客様が通ってくださるようになりました。

 出した時は全然認知度がない料理でも、後からテレビに取り上げられたりするので、「大西さん、2年前に出してくれたあれ今えらい流行ってるらしいで!」と、そこを評価してくださる当時からのお客様がいるのはありがたいですね。


↑こだわり抜いた食材のラベル。「分かる人には分かります」とのこと。

今は「安くてたくさん」ではなく、「超一流に出会えるお店」に

 最初はリーズナブルさにこだわっていたのですが、今は食材にこだわるようにしています。お客様の年齢層も上がってきたし、何より自分も一流の食材で料理をしたい。

 いくら高くても、やはり希少な一流食材を仕上げるのは楽しい。利益よりもそっちを大事にしたいです。

 現地のレストランでも手に入らないような食材も、ロイヤルホテル時代から信用して頂いているお取引先から優先的に回せて貰えています。

 ホテル時代の友人が見ると驚きますね。フレンチの最高級食材で、ヤマシギの脳みそがあるのですが、日本では北海道で唯一取れるんです。フランスで手に入るものでも15cmほどのものなのですが、30cmくらいあるような最高の食材が入ったと連絡をいち早くもらえる。値段を聞いてみると、12,000円。効率性を考えればコースに加えられるようなものではありませんが、何より自分が料理してみたい気持ちが勝り、仕入れました

 ピレネーで穫れる山鳩、パロンブも三年ぶりに入ってきた時に、関西で10羽しか割り当てがなかったのにそのうち3羽を頂きました。


↑この日のメインは希少食材のヒグマ。冬眠前の今の時期に脂がのり、ここまで良質なものは滅多に手に入らないのだそう

最初の一文字との出会いは「厨房設備屋」として

 昔、この世界に入った頃に一文字さんで包丁を買ったのですが、その時は「包丁が見やすく相談しやすいお店」くらいの印象でした。

 ただ、神戸で開店した友人の勧めで厨房設備屋さんとして一文字さんを紹介してもらいました。大手のメーカーは売りたいものを勧めてくる一方、使い手目線やお店としてのバランスで提案をしてくれるので非常にありがたかったですね。

 メーカーから直接買うのが一番安いと思っていたのですが、濱口さん(※弊社社員)との出会いで完全に印象が変わりました。私も結構長くやっているので独立する若い子がよく相談しに来るのですが、やはり資金的な余裕があるとはいえない子が多く、必要なものをその場で手配して結果高くなってしまう。

 「信頼できる厨房屋」を知らないんです。濱口さんに頼めば料金も抑えながら、いつでも親身に相談に乗ってくれるので、若い子にも紹介するようにしていますよ。

FV10は、切れ味だけでなく手の馴染みと使い勝手がとても良い

 濱口さんに勧めてもらった一文字さんのFV10は、切れ味も良いですし、手の馴染みも含めて使い勝手がとても良いですね。

 フレンチでは「食材を切る」というのは一工程でしかない。そこに対して日本は刺身をはじめ「切る」だけで完結する料理がある。その捉え方のちがいが道具へのこだわりに表れているように思います。フレンチであっても、下処理といっても切れ味の違いで旨味の出方も違ってきます。

 また長く使うことを考えると疲れない、使い勝手が良いものを選びたいのです。昔から使っている包丁があったのですが、FV10に出会ってからはソースを作る時の玉ねぎ、エシャロットのみじん切など出番がかなり増えてきています。非常に使い勝手が良いですね。
 

最高の食材を、できるだけ長く料理し続けたい

 仮にスタッフをいれなくても今後も良い質の料理を、口が肥えたお客様にずっと提供し続けていけるようにという思いから、福島のたくさんのお客様が来てくれるところから、祖母の旧家を改装して移転した経緯があります。

何より自分も一流の食材で料理をしたい。いくら高くても、やはり希少な一流食材を仕上げるのは楽しい。利益よりもそっちを大事にしたいです。

 そういう料理を出していれば、少し値段が上がってしまってもまだ高級フレンチよりずっと安いので、お客様もたくさん通ってくださる。自分もそういう食材を料理できる。これが私にとって大切だなと思います。





大西亭

時間   ランチ 12:00~13:30LO ディナー18:00~21:00LO
定休日  月曜、第3日曜休
住所   大阪府大阪市福島区鷺州1-9-18
予約   TEL/FAX:06-6451-0740 Instagram https://www.instagram.com/onishitei.official/